多くの人は、目の前にあるものしか見えない。手で触ることのできるもの以外は、存在しないと思いこんでいる。
たとえば「虚数」と呼ばれるものがある。二乗したらマイナスになる数だ。
もちろんそんなものは、この世に存在しない。
それなのになぜ、そんなありもしないものを、学校の数学で教えるのか? わざわざ持ち出して来て、理屈をこねるのか?
ただ生徒たちを試験でいじめるための、いやがらせにしか思えない、と不平を鳴らす。
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だがしかし、ちょっと待てよ。
そもそも数学は、指を折って数を数えることから始まった。だとしたらそこには、1,2,3,4,……という「自然数」しか存在しなかったわけだ。
少数もなかった。負の数もなかった。そんなもの、どうやって指を折るんだ、って話だ。
それを言うなら、「ゼロ」の概念もなかった。「何もない」ということは、あくまで「ない」であって、「何もない状態が存在する」と主張するのは、ただの屁理屈と感じられたのだ。
それらのすべてが、ヨーロッパの数学で広く認知されるのは、はるか後の17世紀を待たなければならなかった。
そのころにもきっと、みんな思っていた。
負の数なんてあるわけないだろう、ゼロなんて信じているヤツは馬鹿だ、と笑っていた。
一方現代の人間で、負の数が存在しない、と言う者はいないだろう。
小学校では教えないが、中学生なら誰でも知っている。それと同じように、人類もその歴史を経て、知の領域を広げていったのだ。
それは数学ばかりではない。ちょっと前までの物理では、陽子はブラス、電子はマイナスの電荷、と教えていた。その逆は「ない」、不正解だと考えられた。
だが実はマイナスの陽子も、プラスの電子もあるわけだ。反粒子とか反物質というやつで、今ではその存在を疑う学者はいない。
ここでもまた人類は、その認識の範囲を拡張した。
「ない」と思っていたものが、実は「ある」ことに気が付く。要するに、賢くなったわけだ。
つまりは「ない」「ない」とわめいているやつほど、頭が悪い。ないように見えるものも、ひょっとしたらあるかもしれない、あるはずだと考えて取り組むことが、知性の証しなのだ。
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そもそももし、虚数が無意味な概念だとしたら。どうしてあれほど多くの数学者がそれを論じ、考究してきたのか?――
私たちの感覚体験の中には、存在しないもの。「虚」に見えるもの。だがそれは本当は「ない」のではなく、「まだ見つけられない」だけなのかもしれない。
私たちの不完全な感覚では、とらえることができないもの。
だがしかし理論的には、あるはずのもの。体系の完全性のためには、なくてはならぬもの。
そんなものの存在を、数学者たちは理知の働きで、とらえることができる。
だとしたらそれは、本当は存在しないのではなく、私たちのこの物質世界とはまた別の次元で、確かに存在しているのかもしれない。
そんな「存在」に対して謙虚であることが、「頭のよさ」の証左であるとは思えないのか?
私たちのなじんできた自然数とは、逆の方向に負の数があったように。
私たちの数直線とは違う、もう一本の座標の軸があって、また別の――もう一つ上の次元を形作っている。
そんなふうに考えることは、けっして不自然ではないだろう。
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私たちの感覚体験の中には、存在しないもの。「虚」に見えるもの。だがそれは本当は「ない」のではない。
私たちの知らないもう一本の座標の軸が、――この物質世界とはまた別の次元がきっとある。
そしてそこに、それらは確かに存在しているのにちがいない。……
(話は次章に続く)
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