(話は前章に続く)
私たちの感覚体験の中には、存在しないもの。「虚」に見えるもの。だがそれは本当は「ない」のではない。
私たちの知らないもう一本の座標の軸が、――この物質世界とはまた別の次元がきっとあって、
そこにそれらは確かに存在しているのにちがいない。……
*
私たちのこの物質世界とは違う、また別の次元。――
ここでちょっとした、思考実験をしてみよう。
コンピューターゲームの中の世界と、そのキャラクターたち。
それらは物質的な存在とは違う。ただの虚構にすぎないと、私たちは感じている。
確かに私たちにとっては、それはそうだった。
だがしかし、当のゲームの中の人物にとっては、一体どうなのか?
ゲームの中の人物にとっては、きっとゲームの中の宇宙こそが「現実」だった。
彼らにとっての「物質」で作られた、実体の世界。――そしてむしろ、ディスプレイの外から覗いている私たちの方が、「虚」の存在に思えているのではないか。
虚と実を、現実と想念を分けるものは、ただ内か外かの区別にすぎない。
それぞれの位相の違いが、同じ幻にすぎないものに実感を――「物質」のよそおいを、与えているだけなのだ。
だとしたら私たちのこの世界にも、きっとまたその外の世界がある。
また別の次元があって、そこに私たちの思いも及ばぬ存在が、あるのかもしれない。そう考えることは、けっして飛躍ではないだろう。
そんな「形而上」に思いを致すことは、もちろん愚鈍ではない。むしろ知性の証しだった。
そこには哲学が、宗教が、神がすまう。それらを語ることはまた、けっして荒唐無稽ではありえない。
*
そうだった。
「宗教」と聞いて、「神」と聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、あの古いおとぎ話だった。
神は6日で世界を造った。それはあるいは祈りを聞き届け、あるいは人を罰し、ときには賽銭を収めたりする。……
そんな擬人化された神なら、啓蒙と科学の時代がしりぞけた、笑うべき迷信にすぎない。信じるのは確かに、蒙昧にすぎないだろう。
だがしかし、そんな昔話のすべてを忘れて。改めて神を定義するなら、それはそうではない。
「宇宙を動かす根本の原理」。おそらくはそれが、神の定義だ。
宇宙をかつて創り、今も動かす根本原理。もしそれが「神」だとしたら、もちろんそれは「ある」。神が「ない」と言いなすのは、かえって滑稽な暴論だろう。
もしあくまでも、目の前の物質世界にこだわるなら、それでもかまわない。
宇宙を動かすものは、あの物理の法則の総体だと言いなすのなら。その総体こそが「神」なのだ。
そしてもし、それが「ある」とすれば。それは一体どんな性質の、どのようなものなのか。
はたしてそこには何らかの意味や、目的が含まれているのか、いないのか。――それを考える営みは、やはり無意味なものではありえない。
少なくとも西欧に関するかぎり、多くの科学者はまた、熱心な神の信者でもあった。ビッグバンの中に神の荘厳を認めることは、けっして矛盾ではないのだ。
もちろん彼らは、その科学の叙述の中に、けっして信仰を持ち込まなかった。彼らが冷淡に映るとしたら、きっとそれゆえなのだ。
たがその彼らも、ときにまた別の場所で、思いを語っている。
アインシュタインにしてもそうだ。
かの偉人は「擬人的な神」の存在は否定しながら、また同時に「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と述べた。
万物をつかさどる自然法則の、驚異の中に神を認め、その崇高さを畏敬したのだ。
*
ビッグバンの初め以来、130億年の時間をかけて、今の宇宙は作られた。
だが超絶の神の次元では、それもただ須臾の時間でしかない。
だとしたらそれを「神は6日で世界を造った」と譬えたとしたも、さしたる無理はないはずだ。
40億年の生物の進化を経て、今の私たちが生まれた。それを「神がアダムを造った」と述べたとしても、けっして荒唐無稽とは言い切れない。
すべては布教のための方便、寓話の手法であるにすぎない。
ギリシャの神話を聞いて、あるいはイソップの物語を読んで、非科学的と笑う者はいない。
アリとキリギリスが言葉を交わすわけないだろう、馬鹿かよ。迷信だよ、と目くじらを立てるとしたら。それはおおどかな、語りの趣向を理解できない、かえってまる出しの暗愚なのだ。
そうだった。敬虔に神を信じる科学者と。やみくもに宗教を罵倒する賢しら(さかしら)と。一体そのどちらが、本当に頭が悪いのか。
そんなことは、改めて説くまでもない。
天才アインシュタインのあの風貌を思い出しただけで、誰にも一目で明らかであるにちがいない。――
コメント