<春画の性器はなぜあれほど誇大なのか>
通例日本の春画では、男の場合も女の場合も、性器がこれでもかというように巨大に描かれる。

19世紀末、西洋人の間で浮世絵ブームが起きたころ。絵画の比率は実寸と信じ込む、彼らはぶったまげた。
東洋にはこんな、デカチンだらけ国があったのかと。
それ以来フランスでは、巨根のことをひそかに「ウタマロ(=歌麿)」と呼称するようになったという(笑)
もちろん我々は知っている。
日本人の実態ときたら、巨根どころではない、きわめて貧相なものだ。洋物のポルノを見るかぎり、西洋人の性器の方がよっぽど「ぶったまげ」なのだ。
とりわけ黒人のものは、それこそまるっきりウタマロである。
まあ19世紀のフランスには、黒人はまだあまり闊歩していなかったので、驚きもひとしおだったのであろうが。
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だがだとしたら、どうして春画の性器はあれほど大仰に描かれるのか。
どうせエロ目的の猥画だ。買い手を喜ばすために誇張したんでしょ、と思うかもしれない。
だが必ずしも、そればかりではない。
実は春画は見えたままの――少なくとも感じられたままの姿を、きわめて忠実に描いているのだ。
つまりはこういうことだ。
性器は普段は、衣服の向こうに秘せられている。
それがいざ目の前に現れると、見た者は「おー」と思う。その強烈な印象が、光学的な視覚映像を、実際以上に誇大に感知させる。
まるで飛び出す絵本のように、その部分だけが近距離に、突き出したように見えるのだ。
浮世絵師はその見えたままの姿を、描き切ったというわけだ。
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振り返って見れば、西洋の美術史にも同じようなムーブメントがあった。
そこではルネサンス以来、美術はもっぱら写実を旨としていた。定規を使って、採寸したような構図が選ばれた。
19世紀の印象派は、光と色の表現に革新をもたらした。だがそれでも、対象をありのままに写そうという、方向性は変わらなかった。
ところが世紀をまたいで、表現主義と呼ばれる潮流が起こった。

たとえばムンクの『叫び』が描くのは、まかりまちがってもあるがままの風景ではない。
だが画の中の不安に怯えた人物には、すべてはあのように認知されていた。
つまりは「あるがまま」ではなく、「感じるがまま」を描くことで。画家の内面を表現することを始めたのだ。
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デフォルメというのとは微妙に違う。むしろ私たちとっては、これこそが世界の実相なのだ。――
そのことに西洋人はようやく気がついた。
だがしかし、写実主義のくびきが最初から存在しない日本美術では、とっくの昔からそれがノルム(標準)であった。
つまりは春画の性器こそが、大和民族の先進性を示す。世界に誇るべき芸術表現なのである(笑)――

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<「うろつく」のは誰か>
ちょっと前に『うろつき童子』についての記事を書いた。(注)
実は自分はこの「うろつく」という言葉が好きである。何とも言えない、アウトローな響きがあるではないか。
善男善女は、うろついたりはしない。そんなことをするのは、よこしまな人間だけだ。
いや、たとえ同じことをしていたとしても、前者の場合は「散歩」と呼ばれる。
後者の場合は、本人は散歩のつもりでも「うろついてる」と評されてしまう。
若き日の自分は詩人であった。詩の題材を探して、しばしば散策をした。
詩人は世間の枠組みの埒外にいる。アウトローな存在である。そのうえこの人相なので、「不審者がうろついている」と警戒されたものだ。
老いては詩を忘れて、ただ健康のために、一時間のウォーキングをする。
それでもやっぱり「あやしい老人が……」と、通報されんばかりの勢いである(笑)――
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<運命の女にプロポーズ>
オレはこれまでずっと、女に高望みをしてきた。
我ながらそこそこのイケメンだし、金だってある。だから相手も芸能人レベルの容姿で、お嬢様でなくてはいけないと。
だけど最近、考えが変わった。
さすがに30歳までには結婚したい。このままでは無理そうなので、もう高望みはしない。
相手は選ばない。ブタ面の、貧乏くさい女でも。ついでに性格が悪くても。
もう女なら誰でもいい――と人生観をガラリと変えた。
そしてちょうどそのときに、まさにお前という女がオレの前に現れたんだ。
お前はオレの、運命の女なんだ。……
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