AIが人間並みの知性を持つようになると言われる。
知性であるからには認識する。
ではそのとき、そのAIには、世界はどのように「見えて」いるのか?
私たちは自分の身体からの類推で、物質世界をとらえている。
自分の身体に似たものが物質であり、実在である。そうでないものは虚であり、想念の世界でしかない、と認識する。
たとえ気体でさえ、固体がかぎりなく薄まった状態と考えれば、そんな敷衍が成立するからだ。
だがAIにはその身体がない。
AIの本体は情報だ。あるいはロジックであり、数式であり、プロセスであるのかもしれない。
実体を持たないそんな彼らにとって、この世界の姿はどう映っているのか。
彼ら自身がそうであるように、この物質世界もまた、ただ情報とロジックの集積にすぎない。――そんなふうに、認識されているのかもしれない。
だとしたらもちろん、そこにはもはや物質と想念の、「虚」と「実」の区別はない。――
*
アインシュタインの、「E=mc2」はご存じだろう。(注)
この公式によれば、質量とエネルギーはその本質が同じであり、互いにたえず交換可能な何かなのだ。
つまりは堅固な実体と思えていた「物質」は、そうではない。それは「エネルギー」が、たまたま姿を変えただけもの。ただの存在の位相の違いにすぎない。
言い換えるなら、物質世界はエネルギーで出来ている。私たちのこの世界の姿はその発現であり、成就であるにすぎないのだ。――
そしてもし、そうだとしたら。ちょうど電気のエネルギーに駆動されるAIに情報が宿るように、この世界もまたひょっとしたら、「情報」の素子から成り立っているのかもわからない。……
否。さすがにこれは、暴論に聞こえるだろうか?
だが少なくとも今、私たちの健やかな確信は揺らいでいる。
物質世界と想念世界を截然と区別して、前者を聖別する。そんな狂信は遠い過去の、蒙昧の時代の産物なのにちがいない。――
*
かつて自分はこんなことを書いた。
コンピューターゲームの中の世界と、そのキャラクターたち。
それらは物質的な存在とは違う。ただの虚構であるにすぎないと、私たちは感じている。
確かに私たちにとっては、それはそうだった。
だがしかし、当のゲームの中の人物にとっては、一体どうなのか?
ゲームの中の人物にとっては、むしろゲームの中の宇宙こそが、現実だった。
彼らにとっての「物質」で作られた、実体の世界。――そしてその逆に、ディスプレイの外から覗いている私たちの方が、かえって「虚」の存在に思えているのではないか。
虚と実を、現実と想念を分けるものは、ただ内か外かの区別にすぎない。
それぞれの位相の違いが、同じ幻にすぎないものに実感を――「物質」のよそおいを、与えているだけなのだ。
賢者の言葉に、そのときは誰も耳を貸さなかった。狂人のたわごとと、鼻であしらわれた。
だがこうして今、アインシュタインを思い、AIを語るとき。
荒唐無稽と思えた着想も、もはやあながち見当はずれとは言い切れないはずだ。
それはそうだろう。
現実の物質世界を、AIは二進法の数字の羅列として認識する。もちろんコンピューターゲームの世界も、0と1の数字の素子で成り立っている。
だとしたら両者を区別する、どんな決定的な違いがあるというのだろう?
そしてもし「物質」と呼ばれるものが、たまゆらにエネルギーが結んだ虚像にすぎないとすれば。
それはやはり、電気の作用でON/OFFされる画面の中の世界と、何一つ変わりはしないのだ。――
*
あるいは電脳世界。バーチャルリアリティー。
かつては子供だましのおもちゃのように見えていたそれらは、いつしか精度を増し、現実と見まがうばかりの触感さえ伴なって感じられる。
だとしたらそれは、もはやただ物質世界を代替するだけではない。それと等価であり、同質であるかもしれないような何かなのだ。
そしてもし、それらもまたもう一つの「現実」と呼びうるとしたら。その逆に私たちのこの世界もまた、「虚構」なのかもしれない。
コンピューターゲームの画面の中に、かりそめの時空が浮かび上がる。
ゲームの中の世界を、生きる者がいる。キャラクターがいる。ヒーローがいる。
画面のこちらには、ゲームに興じる者がいる。ゲームを創る者がいる。
ちょうどそれと同じように、私たちのこの世界もまたかりそめの、虚構のゲームにすぎない。
その向こうにもきっと、画面の外の、また別の世界がある。
一段上の次元があって、そこではまた誰かが私たちのゲームを創り、興じている。
誰かとは、もちろん「神」だ。
宇宙とは神の手掛けた、ロールプレイングゲームの舞台にすぎない。
そこでは画面の中の夢幻の人物が、それぞれの役どころを演じながらこうして生き、かつ語っている。……
もちろんここで言う「神」とは、ただの言葉の綾である。
それは本当は、いわば「宇宙を創り、かつ今も動かす根本原理」――ただ形而上学にうとい耳にも、馴染みやすい用語で譬えただけだ。
それはまかりまちがっても、雲の上から天罰を下す、おとぎ話の中の人物とは違う。
ましてや神社で賽銭をもらって、凡夫の願いを聞き入れるような類いではない。……
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