たとえばである。
大勢の人前で誰かを「バカ」と罵ったら、侮辱罪になる。
だが同じ場所で、「いつもドジばかり踏んでいて、俺って何てバカなんだ!」と絶叫しても問題はない。
当たり前と言えば当たり前だが、同じことは対象が一人称複数であっても当てはまる。
たとえばある会議で、
「俺たちはずっと間違っていた。こんなバカな組織は今すぐ解散すべきだ」と発言したとしても。
それは所属する集団への、立派な自己批判である。仲間内の恨みこそ買え、不敬として罪に問われる性質のものではない。
*
何を言いたいかおわかりだろうか。――
自民・維新・参政党の3党が、日本国国章損壊罪(国旗損壊罪)の創設に動いているという。
日の丸を破り捨てるような行為は、不敬として処罰するというのだ。(注)
現在の刑法では、外国の国旗を損壊した場合は処罰される(外国国章損壊罪)が、自国(日本)の国旗に対応する罪はない。――この矛盾を是正する必要がある、というのが彼らの論拠だ。
あまりにも無理筋なイチャモンである。矛盾しているのは、彼らの頭の中身の方だろう。
上記の例を考えてみればわかる。
外国の国旗を損えば侮辱になる。相手の国は怒り狂う。外交問題どころか、戦争にさえなりかねない。
だが日の丸の場合は違う。それは自分もその一員である集団の「あり方」に対する抗議であり、問題提起である。
税金も納める、同じ有権者のデモンストレーションだ。
それを侮辱と感じるのは、国をいいように牛耳る権力者だ。あるいはその権力者を担ぎあげる、多数派の国民かもしれない。
だが少数派が声を上げた異論を、けしからんと圧殺するのは民主主義とは違う。
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祖国を愛するのはすばらしいが、愛することを強要するのは違う。
それでは一切の内部批判を許さない、全体主義と変わらない。独裁者の国になりはててしまう。
愛国を強いるのではない。誰もが自然に愛したくなるような、国になるべきなんだ。
自分は日本の国を愛している。
だがそれは戦後80年、こうしてみんなで築き上げてきた日本だ。すべての異論を許容するような、自由主義の日本だ。
ヤツらの唱える「日本」は違う。敗戦まで77年の明治日本の国体だ。
上官に無条件に従わなければ、ビンタをくらう社会だ。
そんな古い伝統はとっととかなぐり捨てて、新しい伝統に生きるべきなんだ。
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そもそも今回の動議の言い出しっぺは、参政党である。
何でも今夏の参院選で、神谷宗幣の街頭演説に抗議した聴衆が、日の丸にバツ印をつけた旗を掲げた。
そのことを根に持っての発議だという。
だがだとしたら、その聴衆が拒んだのは「日本」そのものではない。
「日の丸的なもの」に傾斜して、国をめちゃくちゃにかき回す参政党に、否を突き付けただけなのだ。
だとしたらきっと、本当の「愛国者」は 神谷宗幣ではない。民主日本の新しい理想を必死に守ろうとした、彼の方だったのにちがいない。――
参考過去投稿:
本当に「反日」なのはどこのどいつだ
天皇はうやまわない
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