なんでも公共の場から、裸婦像を撤去する動きが加速している。(注)
「どうして子供の目に入るところに、あんなものを置いているんだ!」
という抗議の声が殺到するのだという。
ただただ笑うしかない。
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「人は自分を投影してしか、世界を解釈することができない」
これは絶対的な真理である。
判断の基準はいつでも「本人自身」なのだ。
たとえばお人よしの人間は、他人もまた自分と同じように善良だと信じて疑わない。だからあっさりと、詐欺師の罠に引っかかってしまう。
逆に悪人たちは、他人もまた悪意に満ちていると決めつける。だから疑心暗鬼になって、夜も安らかに眠ることができない。
これはそのまま、裸婦像の場合にも当てはまる。
頭の中がエロなやつは、何でもかんでもエロに見えてしまう。
裸婦像を見ると、昨夜の自分の情事を思い出す。劣情をもよおす。
他のみんなも、きっとそうなのにちがいない。――というので、「けしからん」と怒り狂っているわけだ(笑)
このあたりの原理は、過去投稿でも詳しく分析した。
一方、頭の中が芸術な人間は、すべてのものに美を見い出す。
裸婦像もちゃんと芸術に見えるから、撤去と言われても腑に落ちない。
ただそれだけのことなのだ。
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あいつらは、芸術とわいせつの区別がつかないのか――というよりも、そもそもわいせつのどこがいけないんだ?
裸婦の彫像を自分は美しいと思う。頭の中が芸術だからである(笑)
だがそれを言うなら、通例ポルノと呼ばれる女の裸のスナップショットだって、同じくらいにうるわしい。
もちろん写真だけではない。生身の女の裸はさらに芸術的である。もっとも相手が十分に、上玉であればの話だが(笑)
芸術家の彫り上げた裸像は、もちろん美しい。
だが神の造化である、生身の人間の裸体はもっとずっと――それこそ神々しいまでに美しい。
そう考えるのが道理ではないのか?
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「性」が世間でわいせつと呼ばれ、あれほどまでに蔑まれるのはなぜか?
理由はたった一つしか考えられない。
性器は排泄器に近接している。排泄物は臭いにおいがする。
だからヤツらは勘違いする。「性」も何かいまわしい、恥ずべきものだと決めこんでしまう。
その発想の短絡たるや、まるっきりバカの典型である。
そもそも性は、性器で行うものではない。その大半は脳の作用に支配された、きわめて精神的な営みなのだ。
男と女がそれぞれに、自分にはない美質を求めあう。そうすることで、互いに全き(まったき)高みを目指す。
遠い昔にプラトンが説いた通り、それはどこか宗教的な意味合いさえ帯びた欣求なのだ。
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芸術を解するには、やはりそれなりの素養が必要だ。
高尚とはほど遠い労務者階級の人間には、どうしても敷居が高い。
その点「性」は人を選ばない。
誰でももっとも手軽に、天上の光輝を覗き込むことができる。
それは万人に平等に恵まれた、尊くもかけがえのない、――「美」と「神」とに連なるための、階梯であるのにちがいない。……
(参考過去投稿:赤いキツネのCMが「性的」に見えた本当の理由)
コメント
スケベ帝王様、ハダカっ屁大将です
帝王様の仰る通り、欺瞞社会の一端を示すラフな噺ですネ~
ミケランジェロの「ダビデ像」なら問題スルーなんでしょうか
曝し捲りも逆に感じなくなったりして
キワドサやアザトサに興奮するもう一人の自分が居ます