「裸婦像撤去」を見事に論破する 

 なんでも公共の場から、裸婦像を撤去する動きが加速している。(注)

「どうして子供の目に入るところに、あんなものを置いているんだ!」
という抗議の声が殺到するのだという。

 ただただ笑うしかない。

     *

「人は自分を投影してしか、世界を解釈することができない」
 これは絶対的な真理である。
 判断の基準はいつでも「本人自身」なのだ。

 たとえばお人よしの人間は、他人もまた自分と同じように善良だと信じて疑わない。だからあっさりと、詐欺師の罠に引っかかってしまう。
 逆に悪人たちは、他人もまた悪意に満ちていると決めつける。だから疑心暗鬼になって、夜も安らかに眠ることができない。

 これはそのまま、裸婦像の場合にも当てはまる。
 頭の中がエロなやつは、何でもかんでもエロに見えてしまう。
 裸婦像を見ると、昨夜の自分の情事を思い出す。劣情をもよおす。
 他のみんなも、きっとそうなのにちがいない。――というので、「けしからん」と怒り狂っているわけだ(笑)

 このあたりの原理は、過去投稿でも詳しく分析した。
 一方、頭の中が芸術な人間は、すべてのものに美を見い出す。
 裸婦像もちゃんと芸術に見えるから、撤去と言われても腑に落ちない。
  ただそれだけのことなのだ。

     *

 あいつらは、芸術とわいせつの区別がつかないのか――というよりも、そもそもわいせつのどこがいけないんだ?

 裸婦の彫像を自分は美しいと思う。頭の中が芸術だからである(笑)
 だがそれを言うなら、通例ポルノと呼ばれる女の裸のスナップショットだって、同じくらいにうるわしい。
 もちろん写真だけではない。生身の女の裸はさらに芸術的である。もっとも相手が十分に、上玉であればの話だが(笑)

 芸術家の彫り上げた裸像は、もちろん美しい。
 だが神の造化である、生身の人間の裸体はもっとずっと――それこそ神々しいまでに美しい。
 そう考えるのが道理ではないのか?

     *

 「性」が世間でわいせつと呼ばれ、あれほどまでに蔑まれるのはなぜか?
 理由はたった一つしか考えられない。

 性器は排泄器に近接している。排泄物は臭いにおいがする。
 だからヤツらは勘違いする。「性」も何かいまわしい、恥ずべきものだと決めこんでしまう。
 その発想の短絡たるや、まるっきりバカの典型である。

 そもそも性は、性器で行うものではない。その大半は脳の作用に支配された、きわめて精神的な営みなのだ。
 男と女がそれぞれに、自分にはない美質を求めあう。そうすることで、互いに全き(まったき)高みを目指す。
 遠い昔にプラトンが説いた通り、それはどこか宗教的な意味合いさえ帯びた欣求なのだ。

     *

 芸術を解するには、やはりそれなりの素養が必要だ。
 高尚とはほど遠い労務者階級の人間には、どうしても敷居が高い。

 その点「性」は人を選ばない。
 誰でももっとも手軽に、天上の光輝を覗き込むことができる。

 それは万人に平等に恵まれた、尊くもかけがえのない、――「美」と「神」とに連なるための、階梯であるのにちがいない。……

  (参考過去投稿:赤いキツネのCMが「性的」に見えた本当の理由

コメント

  1. ハダカっ屁大将 より:

    スケベ帝王様、ハダカっ屁大将です
    帝王様の仰る通り、欺瞞社会の一端を示すラフな噺ですネ~
    ミケランジェロの「ダビデ像」なら問題スルーなんでしょうか
    曝し捲りも逆に感じなくなったりして
    キワドサやアザトサに興奮するもう一人の自分が居ます

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