カエサルのものはカエサルに

 新約聖書はキリスト教徒ならずとも、文学作品として、十分に味読に値すると思う。

 数々の有名なシーンがあるが、もっとも印象に残るものは何だろうか?

 自分なら迷うことなく、「カエサルのものはカエサルに」を挙げる。

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 背景を説明しよう。

 イエスはユダヤの人間であり、元来ユダヤ教徒であった
 しかし当時のユダヤ教は、ひたすら戒律を守ることだけを重んじる、形式主義に堕していた。
 「パリサイ人(びと)」と呼ばれた、そんな主流派を批判して、イエスは愛と赦しの新しい教えを説いた。

 次第に民衆の支持を集めていくイエスを見て、 パリサイ人は面白く思わなかった。
 何とかイエスを陥れようと、一計を案じ、イエスにいわば公開討論を仕掛けたのだ。
 パリサイ人は、イエスに問いかけた。
 ――人々はローマ皇帝(カエサル)に、税を納めるべきか、否か。

 それはとてつもなく、巧妙な罠であった。
 当時ユダヤの民は、帝国ローマの支配下にあり、誰もが重い税金に苦しめられていた。
 もしイエスが、税を納めよと答えれば、民衆の心はイエスから離れていくはずだ。

 一方、納めるなと答えれば、イエスはローマに対する反逆者として、捕らえられることになる。
 だからどちらに転んでも、必ずイエスを葬り去ることができるのだ。
 悪知恵もここに極まれり。実に完璧な詭計をめぐらしたわけだ。

 だがしかし、窮地に陥るはずのイエスは、少しも動じることはない。
 相手の魂胆を見抜きながら、悠然と命じた。税として納める銀貨を、一枚自分に見せよと。
 差し出された銀貨には、カエサルの肖像が彫ってあった。
 そこでイエスは問うた。これは一体、誰の肖像であるか。
 人々は答えた。カエサルの肖像であると。
 そこでイエスはこう言い放ったのだ。

「さらばカエサルのものはカエサルに、神のものは神に納めよ」

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「さらばカエサルのものはカエサルに、神のものは神に納めよ」

 皇帝の顔が刻んであるってことは、皇帝のものなんじゃないの? だったら皇帝に返してやんなさい。
 屁理屈と言えば屁理屈、頓智と言えば頓智である。
 結局のところは税金はちゃんと納めなさい、と言っているわけだから、本来ならば民衆も失望してしかるべきだった。しかしあまりにも美麗な修辞によって、煙に巻かれてしまった。
 もちろんローマから、扇動の罪に問われることもない。
 つまりは舌先三寸で、どん詰りだったはずの状況を、実に見事にを切り抜けてみせたのだ。

 もちろんそれだけだったら、パリサイ人との知恵比べで終わってしまう。
 大切なのは、対句の後半である。
「神のものは神に納めよ」
 この箇所は通例、こう解釈される。
 キリストの教えは、けっして現実の社会や政治をひっくり返す、革命の思想ではない。現実世界――物質世界においては、むしろ羊のように従順であることを説いている。それが「さらばカエサルのものはカエサルに」である。
 一方、精神世界においては――宗教と信仰の領域では、けっして何ものにも屈してはならない。鋼のような強靭な意志で、守るべきものを守り抜かなくてはいけない。「神のもの」の意味するところは、きっとそういうことだったにちがいない。

 この後半の一言を添えることで、一見詭弁と思える論法が、深遠な哲学に――香り高き文学に昇華されている。
 きっと民衆からは賛嘆の声が上がり、片やパリサイ人たちは、尻尾を巻いて逃げ出したにちがいない。
 これだけ才気にたけた男には、どんなに論戦を仕掛けても、けっしてかなわないと悟ったからだ。

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 自分が聖書の、このシーンを「いち推し」する理由は、その圧倒的なリアリティーである。
 たとえば「受胎告知」であれ何であれ、他の場面は、けっしてそうではない。
 寓話として読めば大変興味深いが、当然処女が懐胎するはずはないから、もちろん事実としては受け入れがたい。
 異教徒の目からすれば、せいぜいよく出来た、すてきなおとぎ話としか感じられないのだ。

 だがしかし、この「カエサルのもの」のシーンは違う。
 これは疑いなく、現実に起きた出来事だ。そう感じさせるものがあるのだ。
 なぜなら? 理由はただ一つ。
 ここまでに完璧な出来栄えの、フィクションを思いつくことは、人間業ではけっしてかなわない・・・・・・・・・・・・・・からだ。

 自分のように、ずっと文学にかかわってきた人間には、圧倒的な実感でそれがわかる。
 いかなる大作家も、天才の着想も、このような物語を組み立てることはできない。
 所詮は人間ごときの小細工が、なしうる造作ではないのだ。
 そしてもし、誰もこれを作れないとすれば。それはもちろん「作り話」ではありえない。
 
 これはけっして、誰か人の手によるものではない。
 間違えなく実際に見聞きされた「出来事」だった。
 無数の諸要素が、よにも複雑にからみあった「現実」なるもの。そのせめぎあいの中から、ただ奇跡のように生み出された、本物のエピソードなのだ。
 それは「小説のように出来すぎている」のではなく、「小説にしてはできすぎている」。現実の出来事と考えなければ、とうていありうるものではないのだ。
 それはまさしく、小説よりも奇だといわれる、「事実」そのものでなくてはならない。

     *

 確かに私たちの現実の世界には、ときにそんな、どんな芸術にもなしえない不思議な「作品」が現れる。
 その美しさにおいても。迫力においても。意味深さにおいても。
 この「カエサルのもの」のエピソードも、またそのようなものなのだ。

 この場面を読むことで、私たちはイエスが単なる物語の中の、架空の人物ではないことを知る。
 自分たちと同じ血と肉を持った、生身の存在の息遣いを、はっきりと感じ取ることができるのだ。

 自分がこれを、聖書の最大の山場と考えるのも、またそれゆえなのだ。――

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