あるいは個人の感想にすぎないかもしれない。
だが今思えば、民主主義なるものは、きわめて西欧的な理念なのだと思う。
多くの地域もまた、同じようにそれを理想と信じて、真似ようとしたがはたせなかった。
アジアにせよ、アフリカにせよ、南アメリカにせよ。――
ロシアにしても国土の過半は埒外にあるから、アジアの呪縛を逃れられない。
わが国においても、この体たらくだ。GHQのお墨付きの、借り物の民主主義が、真の意味で根付いたとはとても言い切れない。
戦後教育の必死の洗脳で、民主主義はすばらしいとたたえる。日本も民主国家の一員だ、と信じ込む。
それでいて選挙の投票率は、半分そこそこにとどまる。政治を語るのはタブーとされる。そんなものは一部の意識高い系の、専売特許なのだ。
政府に不満は垂れても、それが社会運動には結びつかない
結局みんな、相変わらず長いものに巻かれて、お上の言いなりになっている方が居心地がいいのだ。……
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つまりは民主主義なるものは、ただのヨーロッパの発明品にすぎない。それを世界のどこにでも押し付けようとしても、実態に合わない。
それは人類史に、普遍的な価値ではない。文明社会の最終形とも違う。
「民主主義だけが唯一の政治形態ではない」と、堂々と主張する独裁者も増えてきた。
そんな彼らの「暴言」も案外、事の真相を突いているのかもわからない。――
思い出してほしい(過去投稿参照)。ネアンデルタールの遺伝子を、もっとも濃く受け継いだものが白色人種である。
だとしたら民主主義とはきっと、もっともネアンデルタール的な何かだった。ひょっとたらそれは、「ネアンデルタールの呪い」そのものなのかもわからない。……
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アジア人を語るなら、犬たちの習性を思い出すことだ。
犬は「群れ」の動物で、ひたすらリーダーへの盲従を喜ぶ。
そのことをもって卑屈な奴隷根性だと、さげすむのは筋違いだ。本人たちはそれで幸せだと言っているのだから、何の問題もあろうはずはない。
政治の要諦は、みんなを幸せにすることだ。そしてそのための道筋は、けっして一様ではない。
西欧流のやり方をただ金科玉条のように押し付けるのは、単に傲慢にすぎない。かえって民主的とは言えないだろう。
支配者が間違えたらどうするのか、って?
だが「間違え」の基準は、一体何なんだろう。
多数派の判断を正解とするのか。多数派は間違えることはないのか。
そもそも多数派が、指導者への隷従を選択したとすれば、やはりそれはそれで正しい選択だろう。
支配者は彼らが崇める「神」であり、神が間違えることはない。なぜなら神こそが世界の理法であり、正義であるからだ。――
自由がなくては、息苦しくないかと言う。だがそれも違う。誰もが西洋風の自恃と、自由を求めているわけではない。
そもそも自由とは「自らに由る(みずからによる)」ことだ。
自分自身と支配者を重ね合わせ、同一視している集団においては。支配者への隷従こそが至上の自由であるような、そんな逆説がきっと成立するのだ。……
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