ステレオタイプ(固定観念)が文学の解釈を誤らせる、ということがある。
たとえば三島由紀夫の『仮面の告白』という作品がある。
このタイトルを聞いて、誰もがこう思う。
仮面をつけて社会生活を送っていた「私」が――作者が、その本当の素顔をさらした。自分を偽ることをやめて、小説の形で本性を現した、と。
もちろんこの作品は、同性愛者の物語だ。
そのうえ作者の三島由紀夫にも、きっと同性愛的な傾向があったとされる。
そう考えればこの解釈は、いかにももっともらしく聞こえる。というよりも、実際そうであったにちがいないのだ。
だがしかし、はたして「それだけ」だったろうか?
「ダブルミーニング」という言葉もある。このタイトルにはそれだけではない、もう一つの別の意味合いも、託されていたのかもわからない。
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だってそうだろう。
「仮面が告白する」とは、本当に仮面の向こうの素顔が、語り出すことなのか? あるいは仮面の人物が、仮面を脱ぐという意味なのか?
この言い回しを、ごくごく素直に解釈すれば、きっとそうではない。
むしろその逆に、仮面劇の役者が、仮面をつけて告白する。架空の人物になりきって、架空の告白をする。そういうことなのにちがいない。
もちろん役者自身は、ただの善良な小市民だ。悪事などとは何の縁もない。その彼が舞台の上で悪鬼の面をつけて、鬼畜の所業を白状する――それが本当の「仮面の告白」だろう。
つまりは仮面の告白とは、虚構の告白であり、一言で言ってしまえば「嘘」なのだ。
もちろん三島由紀夫は、言い伝えられる通り、同性愛者だったかもしれない。この小説もまた、自分自身の体験にヒントを得ていたかもしれない。
だがヒントはあくまでも、ヒントである。当たり前のことかもしれないが、そこに書かれたことのすべてが、三島由紀夫の自伝なわけではない。
別に三島は、私小説の作家ではないのだから。
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芸術とはあくまでも、その作品世界を構築することが本旨である。
別に自分を知ってもらいたくて、小説を書いているわけではない。思いを伝えるためでも、ましてや性癖を暴露するためでもない。
自分がどういう人間であるかなんて、芸術家にとっては別に、どうでもいいことなのだ。
だがしかし、世間の人間はそうは考えない。
人間は本音と建て前を使い分ける。誰にも人に知られたくない恥部がある。――そんなステレオタイプの人間観を、そのまま作品理解にも当てはめる。
作品は作者の分身だ。小説はその日記みたいなもので、必ず心情が吐露されている。
少なくとも、主人公が「私」と名乗る一人称の小説は、その本性を赤裸々に白状している。
そう考えるから、へえ、三島由紀夫て「こんな」人だったんだ、と面白がる。あるいは眉をひそめるわけだ。
もちろん作者だって、そう受け止められることはわかっている。
百も承知のうえで、陰でこっそり舌を出して、そんな世の人々の軽信を笑っているのだ。
小説の中の「私」は、私じゃありませんよ。これがただの小説だということを、忘れてはいませんか?
額面通り受け取ってはいけません。けっこう嘘も交ってますよ、と。
二律背反の解釈を許す、「仮面の告白」というタイトル自体が、そんなアイロニーを可能にするための仕掛けになっている
この小説を読んで、三島由紀夫は気持ちの悪いホモ男だと信じ込んだ連中は、だとしたらすでに作者の術中に、見事なまでにはまりこんでいるわけだ。――
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