「パラアスリート」論考 

『切断ビーナス』(注)には驚かされた。
 義足のモデルたちが、思い切りアートな写真集を飾っている。
 のみならず同名のファッションショーも開かれ、ランウェイでポーズを取った。

 すなおに、美しい。かっこいいと思う。
 同時に、脳天を打ち砕かれるような衝撃を感じる。
 だってそうだろう。そこでは世人たちをとらえてきたステレオタイプが、見事なまでに粉砕されている。 
 障害は隠すもの。義肢はなるたけリアルに似せて、気づかれないようにするもの。――そんな思い込みは、全然ナンセンスだった。
 すべては目一杯ド派手に、「見せる」ものとなった。彼女たちは確かに、その存在の意味と輝きを、胸がすくほど堂々と主張している。……

「ふつう」の女の子が、この姿を見てどう思うだろうか。
 その美しさに憧れるあまり、自分も足を切り落として、ああなりたいと思う。――今だって髪を染めたり、メイクをしたり、さらに言うなら整形をしたりする。だとしたらその延長で、生身の足ではなく義肢で自分を飾りたいと思いはしないか? 

     *

 見た目の美しさだけではない。
 パラアスリートのブレードはどうだ。レーサーは?

 その機能と力強さは、単に障害を埋め合わせるだけではない。現実の肉体を十二分に代替し、ときには凌いでいる。
 実際パラリンピックの記録が、同一種目の五輪を上回る例もある。パラアスリートたちが五輪に出場すれば、やがては軒並みメダルが奪われる。――そんなハイテク義肢を使った、いわばテクニカル・ドーピングのようなことを許していいのか、と関係者は今から頭を悩ませている。……

 男の子たちはメカに憬れる。
 人間がロボットを操る。のみならず一体化する。変身する。サイボーグとなる。――みんなが大好きなストリー設定だ。
 そんな彼らの目に、記録を連発するパラアスリートの雄姿はどう映るのか。あれこそが少年たちの、夢の具現ではないのか?

     *

 少年も少女も義肢にあこがれ、ひいては障害にあこがれる。――そんな倒錯の想像は、もちろん今の段階では、とてつもなく不謹慎に聞こえる。
 当事者たちの本当の苦しみを、少しも理解していない、と憤る者も多いだろう。

 だがしかしこの先の未来には、テクノロジーはきっとさらに進歩する。
 今よりもはるかに進歩したハイテクの義肢や補助具によって、彼らも何一つ不自由なく、日常生活を送れるようになるかもしれない。
 障害の不利益よりも利点の方が――その義肢の美しさや機能の方が、上回るときも来るかもしれない。

 そのときには――そのときには健常者たちが、きっと障害者にあこがれる。 
 ちょうど近視の女性がコンタクトレンズを入れ、大リーグのピッチャーがトミー・ジョン手術を受けるように。
 自分たちもまたこの貧相で、短足胴長の生身の体を放棄して。もっとずっと優秀な「新しい体」を、手に入れたいと考えたとしても少しも不思議ではない。

 そのときには「障害者」はもはや、負の存在ではない。誰もがうらやむ人類の、究極の進化形となる。――

     *

  もちろんダーウィン以来説かれてきた「進化」は、もっと生物学的なものだ。遺伝子の中に組み込まれながら、反復されるような変化である。
 テクノロジーは、そうではない。

 だがテクノロジーも畢竟、人間の生物学的な・・・・・脳が生み出した産物だ。
「サピエンス(賢い)」の発現であるにすぎない。
 だとしたらそれを、 ホモ・サピエンスの進化の一部と言いなしたとしても、あながち暴論ではあるまい。

 ましてやいつか、四肢だけではなく脳みそまでが、コンピューターで置き換えられる日が来たとしたら。
 そこに現れるのは、ホモ・テクニカルとでも呼ぶべき新しい種――生物存在の究極体ともなりうる何かなのだ。……

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