「生命倫理」という言葉を聞く。
たとえば安楽死や中絶で、ヒトの、あるいは胎児の命を奪うことは許されるのかと。
あるいは遺伝子工学やクローンで、命を生み出したり、改変することはどうなのかと。
もちろんそれらの科学は、予期せざるリスクを伴なう。そのことは十分議論される必要がある。
だが西洋人たちは、えてしてそこに次のような、もう一言を添えたがる。
「人間が神の領域に踏み込むことは許されるのか?」――
もちろん単なる文学的な修辞であるなら、ケチをつけるつもりはない。
だが本当にそう考えているとしたら、思い違いもはなはだしい。
*
別段神の存在に、異論を唱えているわけではない。
だが仮にそのようなものがあるとして、「神の領域」とは一体何なのか?
たとえば遺伝子で言うなら、DNAの塩基の配列で生物のすべての情報を記す――そんな驚異の仕組みを創り出したのが神であり、その偉大さはひとえにそこに存する。
その仕組みを用いて、実際にどんな生物を生み出すのか。それはもう一段下の次元の話だ。
そんないわば下請けの作業を、たとえ人間が代替したとしても、それはけっして冒涜ではない。
神に成り代わる、驕りのようなものとは違う。
昨今の進化論の記述によれば、あらたな種の創生は「突然変異」がその始原となる。
だがそんなただの偶然にすぎないものに、生命誕生の工程を委ねるくらいなら、人間の手に委ねてもよさそうなものだ。
そう考えるのは、はたして暴論だろうか。
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一つたとえ話をしよう。
現在はどうであるか知らない。あくまで30年近く前に聞いた話である。
パソコン(PC)は工場での製造直後は、ただの箱(機械)である。そこにOSをインストールしなければ、売り物にならない。
インストールはディスクを本体に入れて、後は見守るだけだ。最低時給を払ってパートにやらせるにしても、もったいないような単純作業だ。
そこで当時はこの作業を「福祉作業所」に委託していた。(精神)障害者たちに、就労体験を積ませるための施設だ。 小遣い銭程度の工賃でも、業務を請け負うことで働くことのよろこびを知り、人間としての誇りを取り戻すことができるというわけだ。
PCにディスクを入れながら、そんな作業員の一人が、胸を張ってこう言ったという。
「パソコンはボクたちが作っているんだ」
世の中は今や、パソコンの時代である。みんながそれを有り難がり、それがなければもはや夜も日も明けない。
だがあれも全部、ボクらがこうして作っているんだ。誰も知る者のない作業場の片隅で、実は名もなきヒーローたちが黙々と働きながら、世界の骨組みを支えている。――
*
何とほほえましい勘違いだろう!
だがもちろん、勘違いであることには変わりはない。
パソコンはもちろん、そうではない。
「パソコンを作った」のは、末端の工場でPCにディスクを挿入する工員ではない。大元の、OSのプログラムを書いた連中だ。
ビル・ゲイツだがスティーブ・ジョブズだが知らないが、そもそものパソコンを動かす仕組みを考案した彼らこそが、その「創造主」なのにちがいない。
変な譬えかもしれないが、「神」もまたそのようなものなのだ。
神は宇宙を動かす、根源のプログラムを作り上げた。
遺伝子で言うなら、DNAの塩基の配列を用いて、生物のすべての情報を記した。そのことが神異なのだ。
そして言うまでもなく、そんな真の「創造」は、人間ごときの小細工の及ぶところではない。
ただその塩基の配列をいじって、新しい生物を作り上げる。
それを神の領域などと思い上がる。
そんな勘違いは、もとよりたいそう人笑わせな話なのである。
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