<小田凱人>「パラリンピックもテレビ放送」は正論か

 小田凱人が車いすテニス(男子シングルス)で金メダルを取った。
 NHKの実況中継で、例によってアナウンサーが感動を絶叫していた。

 だがこの中継には、いわくつきの前フリがあった。
 同じく小田の出場した準々決勝が、生中継されなかった。
 この点を小田がSNSで嘆くと、ネットでは同情の嵐が吹き荒れた。(参照

「金メダル候補なのに」と、ニッポン・チャチャチャができなかったことを悔しがる者もいれば。
 あの頭の悪いエジプト女のフィフィは、
「日頃は多様性が~とか、差別のない社会を~とか言ってるメディアの姿勢がこれ。放送する事で興味を持つ人が増えるのに」  
と、またしても見当はずれの立論をしている(笑)

 だがしかし以下に引用する投稿こそが、いつでも真実を見抜く、賢者の託宣であることは言うまでもない。――

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<「オリパラ」の並記が悪平等を生む>

「春夏秋冬」のように、 物事を並列して表記する。

 ただ順不同で列挙しているだけで、各項目に優劣はない。
 書く側もそのつもりなら、読む者も当然そう受け止める。

 だが本来並記すべきでないものを――重要度に差があるものをこの形式で提示してしまうと、思わぬ錯覚を醸成しかねないことになる。

     *

「オリパラ」「オリンピック・パラリンピック」という表記がある。

 本来なら「オリンピック」と書きたいところでも、そうすると「パラリンピックはどうしたんだ? 障害者の存在を無視する気か?」とイチャモンがつく。
 それを心配してあわてて付け足した、というところだろう。

 ところがいったんこのフレーズになじんでしまうと、いつしかオリンピックとパラリンピックが、対等の大会であるかのように思えてくる。
 表現の形式が、やがて私たちの思考の型をも規定してしまう。その好例である。

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 別に障害者の価値が、健常者より低い、という差別ではない。
 あくまでも競技大会としての、重要度の話である。

 単純に考えてもわかる。
 障害者の比率は、人口の7%程度というデータがある。パラリンピックはその7%の中で、一番を競い合っているわけだ。
 一方オリンピックは、残りの93%の中での争いだ。母集団の規模は10倍以上なわけだ。
 だとしたら競争の激しさという点で、その中で勝ち残った勝者の重みという点で、オリンピックはパラリンピックの10倍の価値があると言えるだろう。

 そのうえそれは、あくまで大会全体の話である。個々のメダルの重みとなると、もっと話は複雑になる。
 パラリンピックの場合、競技の公正さを担保するために、障害の種類と程度によって細かいクラス分けがなされている。手元の資料(注)によれば、37通りのようだ。
 つまりは人口の7%の障害者の、さらにその37分の1が母集団となって、メダルを争っているわけだ。(注:理論モデルとしての話。実際には各クラスの人数は均等ではない)

 たとえばオリンピックの、陸上100メートルで金メダルなら。人類で一番足が速いのだ、というイメージがわく。
 だが「パラ陸上男子T38クラス」って、全地球でどれだけの該当者がいるのだろう? 
 有資格者がかぎりなく少ないわけだから、その中の金メダルなんて吹けば飛ぶような値打ちしかない――と感じてしまうのは、はたしてそれほど偏屈だろうか?

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 それなのに「オリパラ」という形で一括りにすることで、誤った印象を与えてしまう。
 いつしか両者が、対等な大会として扱われ始める。
 それは一見公平のようで公平でない、いわゆる悪平等というやつに他ならない。

 パラリンピックだけではない。冬季五輪も同じである。 
 これが夏季五輪の種目なら、陸上100メートルの例と変らない。たぶん地球上の誰でもが、エントリーできそうだ。
 だが冬季の場合は、そうはいかない。雪と氷に恵まれる寒冷地の住民か、アイスリンクにアクセスできるような富裕層しか、競技はできない。
 つまりは潜在的競技者の、母集団が小さいわけだから、メダルの重みも割り引く必要があるはずだ。

 ところが「夏季・冬季五輪」と対置することで、誤解が生まれる。
 羽生結弦の金メダルが、まるでウサイン・ボルトと同等であるかのように感じられてしまう。
 それも二大会連続だ、というので感動する。
 おまけにあの通りのイケメンで、オバサンたちがキャーキャー言ったものだから、早速国民栄誉賞を与える――という、大変な失政が行われたのである(笑)

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