先日の五輪の「スポーツクライミング(女子)」に、またイチャモンがついているらしい。
身長が154センチしかない森秋彩には、到底手が届かない位置にホールドが設定されていた。
これは日本人差別だ。少なくとも低身長者へのいやがらせだ。
多様性を尊重すべき時代に、こんなことがあってはならない、と抗議が殺到しているというのだ。(注)
だがしかし、――
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すべての参加者に公平な競技設定なんて、そもそもできるはずがない。
誰でも登れるようにホールドの位置を下げれば、今度は身軽な低身長者の方に有利に働いてしまう。
身長別に階級を分けろ、というのも違う。たとえば「160センチ~170センチ級」のクラスの中では、160センチの人間が一番損をする。
無限の細分化ができない以上、本当の問題の解決にはならないのだ。
だとしたら、我慢するしかない。
運営者が定めた設定を、神が与えた運命と甘受して。その中で精いっぱいに、頑張るしかない。
そもそもこの競技は、実際の岩登りを擬したスポーツだ。言うまでもなく、山の岸壁はいちいち低身長に配慮などしてくれない。手が伸ばせなければ、諦めるしかない。
そんな競技の本質がわかっているから、森秋彩本人は、けっして不平を鳴らしてなどいない。
例によって外野の連中ばかりが、ギャアギャアわめいているのが滑稽でならない。
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参加者の平均あたりに合わせて、競技を設計する。
標準から外れた部分では、それぞれに折り合いをつけてもらうしかない。
それ以外に、五輪が成立する道はないのだ。
そしてスポーツは、ここでも社会の縮図となる。
日本で言うなら、1億2千万の人口がある。その一人一人が個性を持ち、差異を持つ。
だとしたらそこで、すべての構成員に満足がいくような社会のシステムを、構築することは到底不可能なのだ。
万事において、おおむね平均のあたりにあわせて運営する。そこからズレてしまった部分は、それぞれがある程度我慢して、折り合いをつけるしかない。
男女だけでなく、LGBTのトイレも作れ、というのは暴論である。
障害者にも富士山を登らせろ。これも正当な要求ではあるまい。
低身長でも手が届くように、電車のつり革をもっと低くしろ――それはありえない主張ではないが、あまり名案とは思えない。
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もちろん直接、生存権にかかわるような事象では、少数者の権利は最大限に尊重されなければならない。
電車のつり革に手が届かなければ、生活には支障があるかもしれないが、生存が脅かされるとまでは言えない。
ましてやホールドの位置が高くて、スポーツクライミングでメダルが取れないからといって。生存はおろか、生活にもいささかの問題も生じない。
設定に文句があるのなら(注)、オリンピックに出なければいい。おウチに帰って「おままごと」でもしていればいい。
ただそれだけの話なのである。――
(注)あくまでも仮定の話。森秋彩本人は、文句など垂れていない
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<追記-1>
もしパラリンピックの選手が、
「オレたちもオリンピックに出場させろ。オレたちの状態に合わせて、競技設定を変えろ」「全員が一本足で走ればいいだけの話だろう」
と要求したとしたら、とても正論とは受け取られないだろう。
「低身長の日本人に設定を合わせろ」というのは、要するにその手の暴論なのである。
<追記-2>
絶対不利も含めて、与えられた条件の中で最善を尽くす。それがこの競技の趣旨であり、醍醐味なんだろう。
麻雀の配牌が悪いからと言って、「八百長だ」と騒ぎ出す。――そんな愚を、われらが高邁なる大和民族は、けっして犯してはならないのだ。
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