最近の話題だ。(注)
体操女子の宮田笙子が、五輪出場を辞退することになった。未成年(19)であるにもかかわらず、飲酒喫煙の行為があったことが発覚したのだ。
日本代表の主将を務める主力選手だから、大騒ぎになっている。
ネットの世論は賛否両論である。
体操協会の処分を当然とする向きもある。だが多くは、その程度のことで出場不可は厳しすぎる、大目に見るべきだ、と非難しているようだ。
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だがちょっと待てよ。
よく高校野球の選手の、不祥事が露見することがある。チームが出場停止となる。
たちまち疑問の声が上がる。個人の非行にすぎないことで、チーム全体が連帯責任を負わされるのは不条理だ、と。
だがそんなときも、問題行動を起こした当の選手をかばう者はいない。本人が出場できないのは当然だが、という論調になる。どう見たってそんな逸脱は、健全なスポーツのあり方とは違うからだ。
じゃあ宮田笙子の場合はどうなんだ? 日本代表全体が、出場辞退するわけではない。当人だけなんだから、当たり前のことじゃあないのか?
甲子園大会の場合と、どこがどう違うのか。
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答えは簡単だ。
高校野球の場合、主力選手が一人欠けたところで、困るのは学校関係者だけだ。あるいは該当する自治体の、県人会だけだろう。
日本国民の大多数は、それぞれの地元の学校を応援しているから、痛くも痒くもないわけだ。
だが五輪の場合は、日本人の大半が、日本代表を応援している。少しでも多くメダルを取ってほしいと声援している。
有望選手が欠場となれば、日本の活躍に影が差す。
それが口惜しくてしかたがないので、なんのかんのと理屈をつけては宮田を擁護しているわけだ。
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実にくだらない。
五輪はスポーツの大会なんだから、選手がそれぞれの個人として、技を披露するが本然だ。
だが現実には、国と国とがメダルの数を競い合う、代理戦争の場と化している。
「オリンピックを為政者が国威発揚に利用している」と非難することもあるが、ちょっと違う。もっと下々のレベルの問題だ。
それぞれの国の国民自体が、自発的に、ナショナリズムという酒に酔いしれているのだ。
日本代表の活躍に、自分を重ねて応援する。そうすることで、何だか自分自身が活躍しているような気分になれる。
日本がメダルを取ることで、国民集団としての承認欲求が満たされる。個人個人はどんなに取るに足らない無価値な人間でも、自分が属している大和民族は、かくも優秀なのだと錯覚できる。
他に何の生き甲斐もない、希望もない下流国民だ。だからかろうじて、日本代表に夢を仮託することで、誇りを取り戻そうとする。
「ニッポン、チャチャチャ」とわめきながら、騒ぐことで盛り上がる。それだけなら別に金もかからない。それが有象無象どもの、ただ一つの楽しみなのだ。――
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こんな言い方は、ちょっと皮肉にすぎるかもしれない。
顰蹙を買うどころか 袋叩きにもあいかねない(笑)
宮田笙子に同情するには、もっとちゃんとした、ごもっともな理屈もあるのだろう。
だがもしそうなのなら、高校野球の選手だって同じことだ。
甲子園でくわえタバコでプレーすることも、認められなくてはならない。
「論理的一貫性」というのは、きっとそういうものなのだ(笑)――
(話は次回に続く)
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