陰核(クリトリス)というものは、実に不思議な物体だ。
ふつうなら人間の体の器官は、必ず何らかの医学的機能を担うものだが、陰核にはそれがない。
いじって楽しむ以外に、何の役割もはたさない。
なんでそんな、まるで大人のおもちゃのような不思議な意匠を、神様は女たちにお与えになったのか?
だがそれを言うなら、男の乳首だって同じである。
私たちの胸にある、あの情けないワッペンのような飾り物に、何の存在意義もない。
よほど特異な体質でないかぎり(笑)、いじって楽しむ機能さえ持たない。
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かつて酒の席で、ちょっとした議論があった。
ある女性蔑視主義の男が、こんなとんでもないことを言い出した。
女の陰核は、男根の退化したものだ。てことはやっぱり、女は男から生まれた、男の劣化版にすぎないのだと。
もう一人の、また別のミソジニストが反論した。
それでは順序が逆だ。
男の方が女から生まれたのだ。男根は陰核から進化した。つまりは男は女の進化版なのだと。
だがいずれにしても、女が男に劣るという点では同じ考えなので、二人はそれなりに意気投合していた。
そこに今度は、女性崇拝者の男が割って入った。
それでは乳首はどうなんだ? 男の乳首はどうみても、女のそれからの退化だろう。つまりは男の方こそ女から生まれた、女の劣化版なんじゃあないのかと。
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一体そのどちらが真相なのか? 男と女の、どちらがどちらから生まれたのか? 陰核と乳首の件は、いかなる事例として扱われるべきなのか?――
なるほど頭の悪い人間同士の議論とは、聞いていてなかなか愉快なものである(笑)
まあここは、哲学者でありながら科学にも造詣のある自分が、見事に決着をつけておこう。
ヒトの性別は受精の瞬間に定まる。性染色体がXXなら女性、XYで男性と決定される。それは昔、理科の教科書で習った通りだ。
だがしかしそれはあくまで、将来における性の予告にすぎない。それぞれの性徴が実際に外見となって発現するのは、もっとずっと後だ。性ホルモンが活発に分泌され始める、妊娠10週目以降なのである。
それまでの私たちは、まだ「胎児」ではなく「胎芽」と呼ばれ、男と女のどちらでもない無性の――あるいはどちらでもある両性具有の存在なのだ。
そこには男女の器官の両方ともが、まだ未熟な、素材の形で準備されている。
XXかXYかを問わず、ペニスのもとになる材料がある。そのいわば男性器の原型が、後に男性ホルモンの洗礼を浴びれば、立派な男根となって股間にぶら下がる。浴びなければそのままのつつましい姿で、女性器の縁にしまわれることになる。
同様に男女を問わず、乳首もどきが存在する。女性においてはそれがホルモンを浴びて本物の乳首に育ち、男においてはずっと「もどき」のまま、情けなく胸に張り付く。――
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――以上がくだんの、陰核/乳首現象の種明かしである。
このあざやかな科学的解説から、一体いかなる哲学的な意味が引き出せるのか?
結局のところ、男女に優劣はないという、陳腐な平等論に落ち着くのか?
いや、そんなはずはない。女は男より劣っている、と主張したくなる気持ちはよくわかる(笑)
だとしてもその論拠は、どうやら陰核の貧弱さとは別のところに、求めなくてはならないようである。
考えてもみたまえ。
「人間は猿から進化した」などと、かつてはよく言われたこともある。もちろんそれは間違いである。
猿と人間は600万年ほど前に、共通の祖先から枝分かれした。それが事実であって、猿が人間になったわけではない。
当然のことながら、どちらが先とか、どちらが劣っているという問題ではない。
これを男と女の場合に、当てはめてみるとわかりやすい。
男と女は共通の祖型から、ホルモンの誘発によって分化した。
つまりは男がホモサピエンスで、女がチンパンジーだとしてみよう(笑)
チンパンジーはホモサピエンスより「先」なわけではない。劣っているわけでもない。
チンパンジーはただ、チンパンジーなだけなのである(笑)――
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